※環境面で10年程前に緒方意一郎がインタビューされていた記事がありましたので、それをそのまま引用させていただいています。
工業化学科を卒業したが商売を覚えたくて商社に就職
―― 下界(市内)で数人の方々に「緒方さんてどういう人?」と聞いたら、共通項は「仙人のような人」でした(笑い)。 経歴を含めてミステリアスな部分もあるようですので(笑い)、その辺りから伺いたいと思います……。 九州で生まれ、九州で育ったことは間違いないのですよね?
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( 緒方 ) 仙人はひどいな(笑い)。ええ、生まれは福岡でした。しかし、オヤジが戦死したため母は最初、 実家の八幡で生計を立てようとしましたが、難しく、兄弟がいた大分へ移り、兄が経営していた映画館の売店部門を任されました。 したがって、高校時代まで大分で育ちました。大学は九州産業大で、前の年にできた工業化学科に入りました。 教授は研究者の道を勧めましたが、母子家庭で育ち、これからは「お金」の世界だ、金を儲けよと吹き込まました。 というのは、オヤジは陸軍仕官学校出のエリート軍人でして、中佐で戦死しました。 私は一人っ子でして、一旗上げてエリートになるにはとにかく金持ちになることと教え込まれました。 私自身もあまり勉強そのものは好きでなかったので、大阪商法を覚えたいと商社の道を選びました。
―― 商社とは意外でした。それでどんな仕事をされたんですか?
( 緒方 ) 大阪の南久太郎町に本社があった古い専門商社でして、官庁関係の水道処理プラント・薬剤一式から始まり、 そこから拡大して一般工場の廃水処理、土木資材から薬剤などに広がっていきました。ペーパー試験もなく、
面接だけで入れてくれました。それで、入社1年目でしたが、小倉に出張所を出すことになり、お前は九州人だからと上司と二人で小倉に転勤になりました。
転勤先の小倉でカネミ事件告発運動を指導する牧師とめぐり合う
―― カネミ事件に関わったのではないかという説もあるのですが?……
( 緒方 ) はい、カネミ油症事件を起こした会社が近くにありましてね、 車で営業しているうちに、座り込みなどの住民運動が始まっているのを見たんですが、たまたま車で聞いていたラジオのローカルニュースで、 そのリーダー的な存在が犬養光洋さんという牧師さんだということが流れたんです。実は、その人がとても気になっていたんです。
―― どういうことでですか?
( 緒方 ) これがですね、子供の頃、母が映画館に勤めていましたから、映画は毎週見よったです。 「鞍馬天狗」とか「忠臣蔵」とか「君の名は」とかのドラマ映画と、当時、筑豊などでの炭鉱事故が非常に多かったんですが、 それらを取上げたドキュメンタリーものが毎回上映されたんです。もう“正義の見方・鞍馬天狗”は毎週見ると同じような筋ですので見飽きちゃう。 それに比べニュース映画やドキュメントは新鮮です。そして、まだ神学生だった犬養さんが関西から学生キャラバン隊というのを結成して筑豊に入ったという新聞記事を見たのと、 筑豊のニュース映画を見ましてね、私の中に筑豊と犬養さんのことが強烈な印象として残ってたんですよ。そういう伏線がありまして、 とくにその牧師さんがどうしてカネミ油症を告発する会を作ったのかということが物凄く気になり出して(笑い)、それで、 実はカネミの座り込みにしばらくしてから行ってみたんです。そこで牧師と出会って、キリスト教への関心も持ち、 日曜日には伝導所へ通いながら、一方、仕事では大手企業の裏方へ回ると廃水を垂れ流している現場をいやというほど見せつけられたわけです。 当時は、金儲けのためには、捨てるものに金かけられんというのが常識でした。それで、我々が売っていた凝集剤などで処理するのはお役所が見に来る時だけということも知ってしまい、 そういうことに間接的とは言え手助けしとったわけです。
経済成長の真っ只中でしたので、仕事はやればやるほど儲かったんです。新幹線の工事はあるわ、電電の工事はあるわでメチャクチャ儲かりおった。 猛烈社員という言葉がはやり、時間外もドンドン働いて、夜中も現場に行ったり、接待も連日連夜でした。商売も覚えました。
自然破壊などへの加担にじょじょに矛盾感じる
―― 当面目指したところには達したわけですね。何が起こったというか、変心するきっかけになったんでしょう?
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( 緒方 ) 商売も覚えました。金もある程度入りました。でも、一方で自然を壊し、垂れ流しを目の当たりに見、自然に負荷をかけながら自分は金儲けをしている。 こうしていくしかないのかな? しかし、こういう矛盾を解消していくためには自給自足の生活をするしかないのかなあと、漠とですが思い始めたんですね。
―― そこで、緒方さんの中に涌き出てきたもやもやするものを、あたかも火山が爆発するように人生の選択を決定的に変えようとした何かがあったと思うんですよ。
( 緒方 ) それはですね、いままであまりお話していないことなんですが、いわゆる金持ちの世界と、 住民運動などをする人間の住む世界の違いに気がついたのかも知れませんね。どういうことかと言いますと、金持ちの世界というのはあくまでもギブ・アンド・テイクなんですね。 利益が伴わなんかったら関係も薄れてしまうんです。だけど、犬養牧師がやりおった人間関係というのはお金じゃないんです。 本当に純粋に豊かな人間関係があったわけです。そういうことに惹かれたんでしょうね。会社というところは表面的には飲みに行ったり、 ボーリングしたり、それなりの付き合いはあって楽しいんですが、ある一線を超えることはできないんですね。
それと、私はある意味で単純でして、悪に対しての正義感みたいなもので、そういうことを見てしまうと許せないというところがあるんですね。 たとえば、小さい頃、私の時代でもいじめがありました。それを見ちゃうと、おれが代わりにいじめられたいという風な弱い感情といいますかね、 母一人子一人でいじめられもしたし、弱い方の立場というのはいやと言うほど染みついていたんですね。 だから、弱い方に立った時には本当にきついんだということを体験上分かってるんですね。したがって、弱い立場や底辺で締め付けられる立場は少しでも良くしたい、 矛盾を少しでも直したいという思いがじょじょに育ってきたんでしょうねえ。
―― 具体的にアクションを始めたわけですか?
( 緒方 ) 営業車でいろいろ動いていましたから、どこか農業のための適当な場所を探さないといかんということで、 開拓の部落へ行ってみたりとか、離島なども物色しよったんだけど、結局、会社の仕事しながらそういうことをしてもなかなか進展しないわけですよ。 進めるためには会社辞めてがむしゃらに踏み出すしかないかなというように思い始めたんです。
―― その時は結婚されていたんですか?
( 緒方 ) ちょうど重なってると言うか、結婚をする時に、幸子(夫人)に「農業をしたいんだが」と言うたんです。 ただ、したいというだけでしたこともないし、土地もないし、資金もないし、ただしたいという漠然としたことしか言えなかったんですよ。 だから彼女も将来的にはそうなのかなあ、程度に思っとったので、いきなり会社辞めてやる言うたもんだからびっくりしました(笑い)。
―― とは言え、ご自身も不安があったと思いますが……。
( 緒方 ) なかったと言ったら嘘になりましょうが、でも、それまでの経験で飢えさえしなければなんとかやっていける自信はありました。 それだけで家内の実家を全部説得して回りました(笑い)。親戚一同も会社もみな信じられんと総反対されました。 得意先も、お前どっかに引き抜かれるんだろうと言われました。
―― それで、ともかく説得して踏み出されたわけですが、この地に落ち着くまでも曲折があったのでしょうか?
( 緒方 ) 親しくなっていた犬養牧師が「愛農会」という組織があり、そこで研修と行く末は土地のあっせんなどしてくれるはずだと教えられて、 愛農会がある三重県に行って相談したところ、ここを紹介され、家も廃屋になっていたのですがあるのでということで、 この地で3年間の見習をさせてもらったんです。
ちょうどその頃はたまたま減反が進んでいる時期でして、田んぼも作ってみないかとなるし、 この家屋敷も地主さんがもうここに戻る気はないということで安くするから買わんかという話しになり、それじゃあ、 ここでやってみるかということになったわけです。
農業に取組んで心身ともに健康になった
―― ようやくイントロが終わったんですが(笑い)、信じられないのは、緒方さんの場合も農業のノの字も知らなかったわけで、 そういう人が農業、ましてや有機農業を実践されたいうことなんです。そこで、いよいよ本論に入っていきたいのですが、
この地に腰を据えて約30年になろうとしています。いま、振り返ってどうですか? 悔いはありませんか?
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( 緒方 ) 全然悔いはありませんね。ただ、私自身、変化しましたね。基本は変りませんが、どうしてもいかに生きるかということが課題ですよね。 ということはいかに死ぬかということでもあるんですよ。生きることと死ぬことは常に表裏一体です。 でも、日常と言うのは実に平凡です。同じことの繰り返しなんですね。したがって、日常をいかに生きるかということが問題提起として私の中にあるんですね。 それを突き詰めていくと、自分に与えられた命、これは神様につくられたものなので、その意思にしたがって、 それを称えていきたい、大事にしていきたい。そのために「環境問題」があるわけで、そういう観点に立って、 この世に生を受けたことを喜びたいし、自分の細胞を生き生きとして毎日を送りたい。それが神の意向、 力を現わせる場所として必要なんじゃないかと思うんですね。
それにはまず健康でなきゃあいかんわけで、それにはこの農的な環境は良かったなと思っています。 事実、会社を辞める頃は身体がたがたでしたが、この農的生活を始めてからは本当に健康になりました。
―― 率直に伺って、農業を始めた最初から有機農業だったのですか?
( 緒方 ) そうです。自然に負荷をかけたくないという事で、自分の生活も負荷をかけない生活をしたい。 今の経済社会的なものに流されていけば負荷をかけざるを得ないと思いましたし、いやしくも環境問題を論じるなら、 自分が垂れ流しにしていたんではあれが悪い、これが悪いと言えんと。自分が律した生活をしないと声に出せんわけです。 そのためには、自分の生活を変えなければならないと考えたわけです。そこが原点いいますか、出発点でしょうか。
――有機農業を積み重ねてこられたことと、環境問題を考え、最近ではそれを発信しているわけですが、 その両者はどっちがどうだったと言えますか?
( 緒方 ) それは、ずうっと並行してます。
―― 本当に、農業を始めた時から環境問題はお考えになったとのですか? それで、そのきっかけはカネミ油症問題ということですか?
( 緒方 ) そうです。確かに、矛盾はいろいろありました。たとえば、子供が増えていきました。経済的な必要性から、 金儲けのためには車も使わざるを得ませんし、機械化もせにゃいかんし、設備投資も必要です。いろいろな資材も使わなければいかんし……。 だけど、環境問題を考えながら最低限のもの、トラックも中古の中古、テレビはなくて、子供たちにも不自由させました。
なるたけ捨てるものは使いたくない、使うんだったら中古の中古を使っていこうということできました。
消費者が喜んでくれる食材を提供する事が「有機農業」の原点だ
―― そこで、緒方さんにとって、改めて「有機農業」とは何でしょう? この言葉、個人的には昨今の有機農業にはピンきりがあってあまり好きじゃないのですが……。
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( 緒方 ) 農業にはこれでいいという事がありませんね。来年百姓という言葉があります。 来年こそは……の繰り返しで30年来たような気がします。まず、これで完璧だという事はありませんね。常に、自然が相手ですし、 しかも消費者のニーズがどんどん変わっていきます。輸入自由化で外国の農産物もどんどん入ってくるし、 そういう面では農業は技術面からも難しくなってきてますね。
そういう意味では、農業というのは経済的にはなかなか成り立ちにくいんですが、人間、経済性だけではないわけで、 もっと違う部分というか、計算できない部分もあるんだよ、計算できない部分を自分の生活の中に取り入れていきたい、 そういう世界を広げていきたいということも私の中にあるんですね。
今、野菜を送らせていただいていますが、消費者の人たちがいかに喜んでくださるか、喜ぶお顔をイメージしながら野菜を作ってるんです。 喜んでさえいただければ経済的に合わんでも必ず何らかの形で見返りはあるんですよ。計算できない事が。人の輪の広がりもそうです。
どうしたら、みなさんが喜んでくれるかという事を発信し続ける。しかもそれは自然が育んだ農産物です。 言い換えると、自然の豊かさを発信できるわけです。自然とはこんなに素晴らしいものなんですよ、 自然とはこんなに懐が深いんですよと。それが環境問題をみなさんに考えてもらことになるんではないか、と思っているんです。
―― そこは良く分かるんですが、現実には緒方さんご自身もご家族を含めて食っていかなければならない、 経済的な問題という現実があります。それとの並立についてはいかがですか。
( 緒方 ) だから、私は最初から食っていけんというか、貧に徹せざるをえん。子供たちにもしわ寄せは行くだろうと、 それは割りきってきました。だけど、ひもじい思いをせんで何とかやっていけるとも思ってきました。 この家だって、寒いけど住めば都です。どんなに豪華な家でも1年も住めば価値的には平均化しちゃうんです。
そういう意味では、経済とそうじゃないものは半分半分なんですよ。だから、経済の部分を無視してもやっていけば金は天下の回りもので、 いずれは巡ってくるものなんですよ。そう考えたら、5人の子供ができ、確かに生活は苦しかったですが、それじゃあ、 しゃにむに農業ばっかりしてきたかというと、そうでもないんですよ。結構ちゃらんぽらんに過ごしてきました(笑い)。
提案・対案を示し、行政を動かせるNGO活動をして行きたい
―― ところで、農業家であるとともに、環境NGOとしても活動されています。 それは、農業を実践されていることを踏まえての発信といいますか、もっと多くの人にこういうことを知らしめたいというお考えからかと思うんですが、 たとえば「くらしと廃棄物を考える会」というのは具体的にはどんなことをされているんですか?
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( 緒方 ) くらしと廃棄物を考える会の場合は、たまたま私のところのすぐ上にごみ処分場が出来るという話しが持ち上がったんですね、 しかも他県の業者が来て……。その下に私の田んぼや畑があるもんですから、そうなったら無農薬なんて言ってられん。 もっと山奥へ逃げなきゃならんかなと、真剣に思ったんですよ、一時は。だけど、ひっこんでもまたそこに来られたらいずれ逃げ場がなくなる。 これはひとつ真正面に向き合ってやるしかないかなと思い直し、考える会を立ち上げてごみの問題を考えましょうやというのがきっかけでした。 その場合、ただ追い出すんじゃなくして、具体的な対案や提言をしたいということで立ち上げたんです。 そういうことと、反対運動も並行してやりおったらお蔭様で町全体が反対してくれたもんで成功しましてね、できんということになりました。
―― その後はどんな活動をされていますか?
( 緒方 ) そうですね、細々とですが、生ごみ問題に取組んでいます。とにかく焼却場でのごみの半分は生ごみなんですよね。 これを取り出せばごみは半分に減ります。さらに焼却場での問題は燃やした後の灰なんですよ。これを運ぶと物凄い金がかかります。 そのために灰をどうかするために高価な炉を作って、いわゆるガラス化してしまう。今のところ、そういう処分の仕方しかないんですね。 それを地方自治体に押しつけられたら自治体の財政はたまったもんではありません。ただ、生ごみをのけて、 ダイオキシンが出ないような高温で燃やせばまず灰は半分に減ります。その中でさらに分別すればさらに半分くらいになるんです。4分の1くらいはすぐ出来るんです。
それで、熊本では業者が堆肥工場まで作ったんです。しかも償却の半分ですむんです。だけど、行政の壁があるんです。 ごみ行政がいままで業者と一体になってきたためです。
ただ、こういう方向は将来的には必ず実行されなければならないわけで、私のところでは未利用資源の有効化ということでニワトリのえさにしようと考え、 試験的にやっています。未利用資源を嫌忌性発酵しようというわけです。今、日本の畜産の飼料はそのほとんどを輸入に頼っています。 畜産はいまや加工業になってるんですね。しかも自由化されましたので大規模でないとやっていけんわけです。
こういう現状を打破するためにも、多量に出る生ごみとか酒かすとか豆腐かすなどの未利用資源をエサ化すれば壊滅してしまった庭先養豚、 庭先養鶏とか復活するんですよ。まあ、そういうことを住民運動として持ち上げれば行政も動きやすいという図柄なんです。 こういう住民団体の力とかネットワークをこれから益々強めていかんと思いますし、及ばずながらお手伝いをしていきたいと思っています。
基本的には輪を広げること、自然の豊かさを発信していくこと、これを維持しながら新たなものを発信し続けていきたいですね。
―― まだまだ伺いたい事がありますが、料理もできたようですので(笑い)、このへんで締めたいと思います。さらなる発信をして、益々のご活躍をお祈りします。